2012年9月8日土曜日

クリケット


イギリス留学中は公園の芝生の上でクリケットに興じる人達を見る機会が少なからずありましたが、日本では見ることはありません。勿論、イギリス発祥のスポーツです。
日本クリケット協会の統計によると日本国内の競技人口は1500人。700万人といわれるサッカーや野球の競技人口比で0.02%。クリケット協会の普及努力で競技人口は増加傾向にあるとはいえ、まだまだ日本では「幻のスポーツ」です。
しかしながら世界に目を向けると、競技人口はサッカーに次ぐ2番目であり、プロリーグも存在します。BBCワールドサービスでもクリケットの試合結果は頻繁に放送されています。

代々木公園で開催されていたスリランカフェスティバルで日本クリケット協会が体験コーナーを用意してくれたので、覗いてみました。写真のように本物のプロテクターを着けての写真撮影サービスもありました。
肘を曲げずに且つ打者(バットマン)の前でワンバウンドするようにボールを投げるのは難しく、また、投手(ボウラー)の投げるワンバウンドのボールを打つのもやはり難しかったです。
簡単なルール解説書も頂戴しました。一度、クリケットの試合を見てみたいと思いました。

スーパーリッチになるための大学

テレグラフの記事で「スーパーリッチになるための10大学」が紹介されていました。
http://www.telegraph.co.uk/education/universityeducation/9427636/Top-10-universities-for-joining-the-super-rich.html

10 オープン大学 日本の放送大学に該当する大学でしょうか。イギリス在住ミリオネアの1.9パーセントがオープン大学の学位を有しているそうです。

9 サザンプトン大学
ミリオネアの2.3パーセント

8 アストン大学
ミリオネアの2.3パーセント
例 BPのヘイワードCEO

7 マンチェスター大学
ミリオネアの2.4パーセント

6 リーズ大学
ミリオネアの2.7パーセント

5 グラスゴー大学
ミリオネアの3.1パーセント
例 ロイヤル・バンク・オブ・スコットランドのグッドウィン前CEO

4 エディンバラ大学
ミリオネアの3.5パーセント

3 ケンブリッジ大学
ミリオネアの4.3パーセント

2 ロンドン大学
ミリオネアの7.5パーセント
例 ジョージ・ソロス

1 オックスフォード大学
ミリオネアの7.8パーセント
例 ナット・ロスチャイルド

トップ5校はイングランドの伝統大学2校、スコットランドの伝統大学2校、及びロンドン大学となりました。順当な感の強い結果となりました。
数値を足しあげるとイギリス在住ミリオネアの約3割がこれら5校の卒業生となります!?
英語圏で最古の大学であるオックスフォードは流石ですね。

イギリスで最も美しい大学

テレグラフの記事で「イギリスで最も美しい大学」が17校紹介されていました。
http://www.telegraph.co.uk/education/universityeducation/9523401/Britains-most-beautiful-universities.html?image=0

どの大学の写真を見ても納得です。古い大学だけでなく新しい大学も幾つか紹介している点は感心しました。

17 クイーンズ大学ベルファスト
16 カーディフ大学
15 ブリストル大学
14 スターリング大学
13 グラスゴー大学
12 キール大学
11 サセックス大学
10 バーミンガム大学
09 エクセター大学
08 エディンバラ大学
07 ウォーリック大学
06 セント・アンドリュース大学
05 ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ
04 ダラム大学
03 ノッティンガム大学
02 オックスフォード大学
01 ケンブリッジ大学

オックスフォードとケンブリッジを除いて私が最も美しいと感じたのはロイヤル・ホロウェイです。建物と中庭の調和が絶妙です。

写真はアバディーン大学です。もし1校追加するのであれば私はアバディーン大学を加えたいと考えます。

炎のランナー

1891年のイギリス映画、第54回アカデミー賞作品賞受賞作品です。

1924年のパリオリンピックで活躍した二人のイギリス人を描いています。一人はケンブリッジ大学在籍のユダヤ人ハロルド・エーブラムス、もう一人はエディンバラ大学在籍のスコットランド人宣教師エリック・リデルです。

イギリスらしさ満載の映画です。
セント・アンドリュースの海岸から始まり、
クリケットのシーンを経て
ケンブリッジ大学の新入生の様子
トリニティカレッジのカレッジダッシュ
スコットランドのハイランドゲーム
エディンバラでの競技会等々、

極めつけはリンゼイ卿のシャンパンを用いたハードルの練習シーンでしょうか。。
古い建築物に囲まれたケンブリッジ大学の様子やスコットランドのハイランドの描写は美しい限りです。

写真はエーブラムスとリデルとの最初の直接対決のシーンです。リデルはスコットランドを連想させる青色のウェアで胸にはエディンバラ大学の校章をつけています。
この対決で敗れたエーブラムスはムサビーニの指導のもとオリンピックでの金メダルを目指しますが。。。

2012年9月2日日曜日

東京慈恵会医科大学


日本の医学教育は研究至上主義の性向が強いドイツを範としたイメージがありますが、慈恵医大は患者至上主義が強いイギリス系となっています。
慈恵医大は慶應医学部、日本医科大学と共に大正期に大学として認可を受けた私立の医科御三家と称され、芝の慈恵医大には歴史を感じることの出来る古い校舎も見られます。
私が普段お世話になっている葛飾区の慈恵医大付属病院は最近建て替えられ待合室には喫茶店が併設される素敵な病院になりました。慈恵医大贔屓としては嬉しい限りです。

以下は慈恵医大のホームページからの引用です。


源流 ――貧しい病者を救うために――
東京慈恵会医科大学の源流は、高木兼寛(嘉永2年(1849)―大正9年(1920))によって明治14年(1881)5月1日に創立された成医会講習所に始まる。彼は脚気の原因について栄養欠陥説を提唱し、それによって日本海軍から脚気を撲滅した人として世界的に有名である。明治8年(1875)から5年間、海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校に学んでいるが、その頃すでにこの学校のように権威のある医学校を、いずれは日本につくってみたいと思っていたらしい。彼は計画の予定を著しく早めて、帰国早々のあわただしい中でこの成医会講習所なる医育機関を創設している。これは帰国後、日本医学界全体の急激な、しかも好ましくない変貌に気づいたからであった。英医ウイリスの下向に始まる明治政府のドイツ医学採用の方針は、わが国医学界の風潮を急速にドイツ的医風に変容させつつあった。特に当時唯一の医育機関であった東京大学は、この医風で固められていた。権威主義、研究至上主義が横行し、病気をもつ人間を医学研究の対象ないしは研究材料とみる傾向が強かった。高木は、より健全な英国医学の萌芽を日本の土壌に育成する必要があると痛感した。彼は松山棟庵とともに明治14年(1881)1月、成医会なる研究団体を、次いで同5月にこの成医会講習所を設立している。「患者を研究材料とみる医風から、患者を病に悩む人間とみる医風へ」転換しようとしたのである。
成医会は今でも学術団体として活動しており、平成14年(2002)現在までに119回の成医会総会を開いている。また同会発行の雑誌「東京慈恵会医科大学雑誌」も続刊されており、平成14年は117巻を刊行中にある。
成医会講習所は、初め京橋区鎗屋町11番地(現在の中央区銀座4丁目4-1)に開所されたが、創立100年を迎えた昭和56年(1981)5月1日、この地を東京慈恵会医科大学発祥の地として創立記念碑が建立された。
明治15年(1882)、高木は戸塚文海とともに有志共立東京病院なる慈善病院を発足させている。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしている。「美服をまとい資力のあると認められた者はむしろ断られる」風さえあったという。このような趣意は、高木が英国留学中にうけた人道主義や博愛主義の強い影響によると思われる。同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためであった。病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また海軍軍医団の強い支援があった。海軍軍医団は英国に学んだ者が多く、その点軍医の多くをドイツに留学させ、東京大学と密接な関係をもっていた陸軍とはすべての面で対抗意識が強く、常に一線を画していた。東京大学でも施療患者の制度ができていたが、それは「貧困にして、その医学研究上とくに重要と認められた者は、無料入院せしめ治療を施すものとす」とあるように、むしろ研究材料を確保する意向が強かった。
有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに医学教育の場としても重要な役割をはたしていた。成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担ったのである。これは、英国で経験した慈善病院と医学校の関係を東京に実現しようとしたものである。明治20年(1887)、同病院は皇后を総裁に迎え、その名も東京慈恵医院と改め、経費は主に皇室資金によることになった。成医会講習所も成医学校に、次いで東京慈恵医院医学校に改称され、同病院構内(芝区愛宕町二丁目、現港区西新橋三丁目)に移転した。
 有志共立東京病院時代の特筆すべき事業の一つに看護婦教育所の設立がある。英国留学時代、セント・トーマス病院に付設されていたナイチンゲール看護学校を目撃した高木は、日本の近代看護教育の導入にも極めて積極的であった。彼は明治17年(1884)10月、米国宣教師のリード女史を招き看護婦教育を行わせている。これが日本での近代看護教育のはじまりである。第一回生はわずか5名であったが、総裁皇后の臨席をえて卒業式が行われた。現在の慈恵看護専門学校はこの流れを汲むものである。
明治40年(1907)、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下を総裁とする社団法人東京慈恵会が設立され、東京慈恵医院の経済的支援をすることになったので、東京慈恵医院は東京慈恵会医院と改称され、またすでに医学専門学校に昇格していた東京慈恵医院医学専門学校は東京慈恵会医院医学専門学校と改められた(東京慈恵会の精神的基盤は仏教の慈悲心にあるといわれる)。
大正10年(1921)、大学令の公布を機会に東京慈恵会医院医学専門学校は東京慈恵会医科大学に昇格した。そのとき、高木家私有の東京病院が大学に寄付されたため、当医科大学は附属病院をもつことになった。昭和27年(1952)に学制改革による新制の大学となり、昭和31年(1956)、大学院医学研究科博士課程の設置が認可された。